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行政書士事務所の枠を越えた全国規模の事業を展開しています。

代表挨拶と略歴

アクロス行政書士事務所 所長:渡邊政道(ワタナベマサミチ)
日本行政書士会連合会 登録第02102430号
千葉県行政書士会登録第01092号 行政書士
宅地建物取引士、第3種電気主任技術者、第一種電気工事士、2級ボイラー技士、アナログ3種電話工事士、第4類危険物取扱者資格。
私の変な略歴を書き記します。暇な方は読んで見てください。

 学生時代は極端に頭が悪く、いつも脳に黒い霞みが掛かったような状態に悩まされていた。簡単な因数分解が解けないがため、夏休みに高校の40度近い高温教室で1日5時間の数学補習を受ける羽目になった。朝出された問題は夕方なっても解けない。そんな日々が5日ほど経過しただろうか。ハラとかいう数学の先生に「もういい。帰ってよろしい」あきれ顔でこう言い渡された。結局1問も解けないままこのときは無罪放免となる。こんな体たらくであるから本当は大学に進学する予定ではあったがコンピューターのハードウエアを学ぶ専門学校に進むことにした。なんたってこの学校は名前さえ書けば入れるからである。

 登校初日、120人ほどの学生で埋め尽くされた教室を見渡した先生は開口一番「来年は半分も残らないだろう」そんな不気味な予言をした。果たしてその授業は過酷を極めた。朝9時から夕方5時まで。その後実習。大学ではないので休講はない。月曜から土曜日まで狂った様なカリキュラムが連続する。授業中居眠りすればビニールバットで頭を殴られる。これは痛いより恥ずかしい。ある日授業中トイレに行った生徒がいた。彼は先生に胸ぐらをつかまれ罵倒されていた。彼はその後学校を辞めた。夏休みは20日程度。あとはひたすら勉強の日々である。電気工学や電気回路は得意分野だが、微分方程式には苦しんだ。それでもおじいちゃん先生は容赦しない。黒板にびっしりと数式を書き込み、すぐに消そうとする。とにかく解く過程を必死に追いかけ、黒板を速記でノートに写し取る。夕方になるとぐったりし、電車の中ではひたすら寝た。テストが近づくと授業の後は図書館で遅くまで勉強し、星を見ながらサラリーマンの酔ったおっさん達と帰る日々となる。2年生になると落第や授業に付いていけない生徒がボロボロ脱落した。そんな中、私は成績でほぼ2位の位置に付けていた。トップは何と4年制工業大学を卒業してから専門学校に再入学した人だ。それでもそんな大卒に負けるわけに行かないのでこの人を目標に猛勉強し、ある日難問で知られる某先生のテストで満点近くを取得。ちなみに大卒は50点であった。そんなこんなで卒業式では大卒とともに優秀賞をもらうことができた。

 その後先生の勧めで塩ビ工場にシステムエンジニアとして就職した。当時としては最先端のNECの中型機があり、給与計算や在庫管理システムの構築をしていた。しかし会社の空気全体が塩ビ臭く、社員食堂の味噌汁も塩ビの匂いが充満して吐き気を覚え、システム担当なのに工場のネズミ捕獲や当直なんかもやらされ、嫌気が差したのと若いゆえに半年で辞めて、造船会社に転職。ここでは主に吊り橋の構造計算や海底トンネル掘削の切り刃の設計をしていた。ときどき降ってわいたようにプラント工場の煙突や高圧鉄塔の構造設計もしており、とにかく毎日早朝から夜中まで働いて過労で一時期死にそうになる。疲労困憊で新橋や有楽町のガード下で夜中にタンメンをすすっていた苦い思い出がばかりが残っている。

 当時の日本は景気がひどく悪く、職業安定所には失業者があふれ、転職するにしてもなんの資格も無く、かといって以前勤めていた塩ビ臭い化学合成会社には二度と戻りたくはない。やはり独立起業するしかないと日々考え、ある日書店に行き、独立起業の本をパラパラ見ていると、法律系の資格を取得すると独立しやすい、との記述を見つける。

転職また転職のはてに

 しかし、法律は私がもっとも不得意とする分野で、それでも生活していくにはやるしかなく、勤めが終わると近所の夜間大学の法律科に通う日々が続いた。ところがやってみるとこれが意外とおもしろく、特に憲法は感動ものだった。

 その後、過労で造船会社は退職し、失業中は行政書士、宅地建物取引主任者、第三種電気主任技術者と将来の独立に備えて資格を取る。それでも合格してもすぐ開業できるはずもなく、失業して暇なのでアルバイトニュースを毎日パラパラとめくっていると「行政書士補助事務員募集」の文字が飛び込んできた。何となく行って見ると「明日からスグ来い」とのことで何とか仕事しながら事務所経営のノウハウも学ぶことができた。ところがこの事務所の仕事もひどく単調で、急に嫌になり、辞めて知人のペンキ屋に弟子入りし、毎日足場に乗ってペンキ塗りの毎日となる。夏場の38度の日に屋根に登りペンキ塗りをしていたら暑さで靴のゴムが溶けた。楽しい仲間に囲まれ続けたかったがシンナーの臭いで頭痛が悪化し、ペンキ屋も辞め、新聞配達をしながらぶらぶらと暮らしていた。乞食と新聞配達は3日やったらやめられないと販売店の先輩に聞いており、そのとおりで、ぼうぜんと3年ほど暮らし、配達中のバイクの無謀運転で車とぶつかり怪我をしてあえなく廃業。その後電気の知識を生かそうと某特許事務所で明細書と図面を書く仕事を得て、特許事務所通いが始まる。専門は電子回路だが、小さな事務所ゆえにアイデアおもちゃから大型冷凍プラントまで何でもありで、とてもおもしろい日々である。こんなに楽しい仕事なら一生続けたいと考え、弁理士試験に何度か挑戦し、結局あきらめた。 当時は合格率3パーセントくらい。まあ無理だとは思いましたが。

 弁理士にならないのなら特許事務所に勤めていてもムダなのでそこも辞め、ドリル用特殊合金の工場で働いたりビル管理会社でボイラーや高電圧変電設備の保守点検をする巡回メンテの会社を数社渡り歩く。
 その後業務用冷蔵庫の製造ラインで働いたり、またまた失業して少しブラブラしてからバイトをあれやこれやと行い、何が何だかわからないくらいイロイロやった後にNHKのBS放送契約を委託で取るという比較的自由な仕事を始めた。これは毎日街をブラブラ歩き回る仕事で、町中の思わぬ発見がある大変おもしろいものだった。特にショッピングセンター巡りが大好きで、毎日様々な地区のショッピングセンターを回っていた。

 しかし楽しい毎日も続くことは無く、その後NHKからこの仕事が無くなるとの通達を受ける。年末までに次の仕事を探そうと動き回るが、年が明けて1月になっても何の仕事も無く、これは困った事だ、また失業かと考えていたそのタイミングで友人から「不動産会社が売りに出ています。私と共同で購入しませんか。」との朗報が。80歳くらいの社長様はとても良い方で、若い人が会社を継いでくれれば値段はいくらでも良いとのこと。かなりの安値で不動産会社を購入出来た。これを機会に個人事業の行政書士事務所と会社経営の不動産業者として独立した。

行政書士事務所の開業と発展

 最初はワンルームマンションの一室を借りて友人と2人で会社を始めた。友人は損害保険の外交員なのでほとんど事務所は私一人。親から借りた数十万円で開業したのは良いものの、行政書士も不動産も仕事は皆無で貯金は減るばかり。 毎日事務所の机に座って様々な本ばかり読む日々。しかしとうとう1年くらいで全財産が千円くらいになる。自宅から事務所への通勤バス代も無いはめになり、仕方ないので徒歩で田んぼ越えの真っ暗な道を歩いて帰宅したら途中で野犬に襲われそうになった。これではたまらんと廃業を決意したとたん仕事が舞い込んで何とか家賃を払うことができた。 その後も徐々に友人知人からボツボツ仕事が来るようになり、ある日ホームページを開設したところメールを通じて多くの仕事の依頼が来た。
 ネットの可能性に将来性を見いだした私はせっせとホームページ作りに一日の大半を使う日々を送ることになる。特に気に懸けたのは文章の読みやすさとサイトのわかりやすさ。 私が目指しているのは常にレポート用紙に黒インクで書いたような読みやすさ。このサイトもそのような趣旨で作成してある。

 ある日電車に乗っていたらたまたま向かいの席の人が「NPO法人開設ガイドブック」を読んでおり、これはもしかして行けるのではと思い、試しに「NPO設立申請手続き代行します」というホームページを立ち上げたところ、いきなり全国からNPO設立依頼が殺到。このため開業から数年は依頼者との面談と県庁への申請手続で全国を旅から旅の毎日だった。NPOが下火になると今度は会社法が改正になり、1円で作る株式会社の起業ブームが起こり、またまた1円会社の設立に奔走する毎日でである。行政書士はこのように何とか軌道に乗ってきた。

 しかしせっかく購入した不動産会社の収入はほぼゼロ。宅建免許の更新に行くと県庁の係官から「無収入で今までどのようにして生活していたのですか?」と聞かれるしまつ。他に収入があるのでと口を濁すが。ちょうどその頃にタイミング良く弟が勤務していた銀行が経営破綻し、私の所に転がり込んできて一緒に仕事をするようになる。弟は私と違って妻子がいたので食べていくためにはなんとしても一定の収入が必要で、とにかくガンガン不動産業の営業で暴れ回り、不動産手数料収入もうなぎ登りで増えていくことになる。やがて不動産のお客さまの中に偶然学習塾チェーンを全国展開をしている社長がおり、この方の紹介で学習塾事業に手を出すことになる。

 どうせすぐに潰れるだろうと期待しないで事務所のすぐ近くのビルに1号店を出したところ生徒がすぐ50人くらい集まった。 1年ほどしたらFC社長から「近所のショッピングセンターに空きがあるので塾を出さないか?」との打診があり、二つ返事で出すことにした。このショッピングセンターは開業時テナントの9割くらいが退店したお化け屋敷みたいな所で、NHK時代の経験で必ず将来大化けする(良い意味のお化け)と見込み出店を決めた。その後数年でショッピングセンターは急速に回復し、塾も開校から1年程度で生徒が70人を超えてきた。その後はこれはと思うショッピングセンターを見つけては出店を繰り返し、ショッピングセンター型の学習塾の先駆けになることができた。

 塾が落ち着いた頃に金融商品取引業が改正となり、行政書士業務として投資ファンド設立依頼が来るようになった。投資ファンドとは複数の人々からお金を集めて何かに投資し、出資者はその見返りをもらうというもの。中にはかなり怪しい人々もいたが仕事になるならとドンドン依頼を引き受けた。 しかしこれが悲劇の始まりとなる。

悲劇の始まり

 投資ファンドの依頼が増えるにつれて依頼してきたファンド関係者が警察に次々と逮捕される事件が頻発した。時々新聞をみると「ファンドで何億集めて逮捕」といった記事に私の依頼者の名前が載るようになった。それを面白がって新聞記事を切り取り、壁に貼ったりして遊んでいたら、そのうちに刑事が2人組みで事務所に聞き込みに来るようになった。それでも毎回刑事さんと様々な過去の事件の話をしてこれが結構おもしろいもの。 なぜ刑事は2人なのか。それは1人が質問してもう一人が表情を読むという役割分担があった。人間の表情は嘘をつかない。これはその後不動産の仕事でもとても参考になった。いわば詐欺師を見抜く力が付いた。

 次回は何が来るかと楽しみにしていると、ある冬の朝早くに玄関の扉をドンドン叩く音がして何事かと飛び出すと「東京国税局査察部です。家宅捜査に参りました」といって裁判所の家宅捜査令状を見せられた。確かに令状には私の氏名と住所、裁判官の印がある。家宅捜査なんてテレビの刑事ドラマでしか知らないので、これは相当おもしろくなってきたと興奮する。捜査官は2日間かけてみっちり調べると述べ、家の中をひっくり返す作業を始めたが、別に何も悪いことはしていないので堂々と日なたぼっこを決め込んで茶をすすりながらのんびり捜査員を眺めていた。その後調べが進むとたまたまファンド設立依頼をしてきた私の顧客が数億円の脱税をして捕まり、てっきり関係者だと思い込んだ東京国税局が全くの誤解で捜査しているらしいことが判明。午後からは一緒に経営している塾に行って子供の勉強ぶりを見学したりして、帰り際に私がニコニコしながら「ではまた明日。何時にします?」と言いますといきなり「もう来ません」といってそのまま帰ってしまった。それから数年してまた東京国税局の資料調査部も来る。顧問税理士に言わせると「国税局に2回も入られるのは珍しい」などと言われてしまう。これ以来ファンド関係の仕事は絶対受けないことにした。

現在の様子

 現在は主にNPO法人の解散をメインに行う。以前は設立ばかりで今は潰す方に回るとは面白いものである。もう設立した数よりツブした数の方が多くなった。

 2014年12月からは保有する不動産会社の運営で発達障害児の通所支援施設を沖縄に設置した。発達障害児とは自閉スペクトラムや注意欠陥多動症、学習障害といった症状を示す子供達のことで、何もせずに大人になると様々なトラブルを巻き起こし、引きこもりの原因にもなるとも言われている。一見それとわからないために多くの学校や職場でいじめや偏見にさらされ、苦しい思いをしている。そんな人々を助けるべく障害児通所支援施設(放課後等デイサービス))を始めた。但し、この施設は沖縄にあるため数ヶ月おきにLCCで施設に通う日々を送っている。回りの人からは大変ですね、なんて言われるが、実は行くたびにうまい沖縄そばやマンゴー、サトウキビジュース、パイナップル、ゴーヤちゃんぷるーを食べ、夏場はシュノーケリングもしているので仕事なのか休暇なのか判別不明の状態であることは確かである。
 2018年3月にはベトナムのハノイにある語学スクールと合弁事業契約を締結し、現地の日本人駐在員の子供たちに勉強を教える日本人向け学習塾を開設した。ハノイの街角の屋外喫茶店で激しくクラクションを鳴らしながら走り回る車やバイクを眺めながら練乳入りの甘いベトナムコーヒーを飲んでいると、私はいったいどこに向かっているのか、人生の先の見えない日々がまだ延々と続くような気がしてならない。もっともそれは私が一番望んでいた人生なのだが。

事務所概要

事務所名 アクロス行政書士事務所
設立 2000年3月  設立当時の事務所名「渡辺国際行政書士事務所」
事業内容 NPO法人関係、一般社団法人設立、相続・遺言他
所長  渡邊政道
所在地 〒273-0005 千葉県船橋市本町2-10-14船橋サウスビル3F